セントラルパークの「ゲート」(クリスト展)

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※以下の文章はこの時期アメリカにたまたま出向していた私が鑑賞できたクリスト展の文章断片です。どうまとめたらよいのかわからず断片のままですが、既にアートの歴史の底に埋もれてしまったクリストの記憶としてここに掲載しておきます。

2005年2月12日。アートの中でどういうカテゴリーに属するものとして紹介したらいいかわからないが、アーティスト・クリストのオブジェ展示会がNYセントラルパークで2週間行われた。計画はセントラルパークの道という道を7500もの「ゲート」で埋め尽くすというもの。一つ一つはサフラン色の高さ5メートルあまりの門。これに同じサフラン色の3メートルあまりの布が垂れ下がったもの。7500の門は、道に合わせて幅こそ違うものの、あとはデザインも色も同じ、単純な人造物の連なりである。

この作品を実現するために20億円の資金画必要だったそうだが、クリストはスポンサーをつのることもせず独力で捻出。反対に許可を与えたブルームバーグNY市長側は経済効果80億円と見積もる。クリスト曰く、アーティストとして自分のやりたいことを徹底するため資金は全部自分で出す。そしてアートがアートである以上、そこになんら目的があるわけではなく、この作品の意味を問われても答えられる解は何も用意されていない、と。

 しかし人間である性から、いくら意味がないと言われてもその意味を問わないではいられない。またアートというものは、作者の手を離れた瞬間に、それを鑑賞するものの自由な想像力に依存するものという宿命を負う運命にある。ましてやこのようなNY随一の公共スペースであるセントラルパークにうち立てられた作品は、作者の思いとは関係なくその意味の全てはここを訪れる観衆にゆだねられてゆく。

NYの人々がモダンアート好きかはわからないものの、今回のプロジェクトはおおむね好意的に受け止められているようだ。この13日は日曜日で天気が良かったこともあいまって、たいそうな人出だった。大半の人にとってはちょっと面白い出し物である。こんなものに私財20億も投げ打った人の物好きな感覚も世間話の話題になろうし、公園の環境に問題はないのか、あるいは公園をこのようなことに使用していいのかなどということも話題になろう。おそらくこのような話題性がこのアートの多くをささえており、そこに作者の「作品に意味はない」と言明する本質があるように思う。しかしクリストのアートの面白さは、そこにあたかも深遠な何かが存在するように想像力の広がりに応えることができる奥の深さにもあるように思う。

モダンアートに興味を持つ人にとっては、クリストのアートは、そもそもアートとは何か?という根源的な問いを考える良い機会を作ってくれるように思える。アートに明確な目的はないとして、そうは言ってもモダンアートは何のために存在するのか? ひと昔前までは芸術というものは、人を単に気持ちよくさせることを超えて、人に人生や世界の「深遠」を感じさせ感動させることによって、なにか人を超越したものを具現化するものと理解されていたように思う。しかし、いわゆるモダンアートはそのような深遠な問いを諧謔的な意識で徐々に排除しつつ、同時にさらに深遠な深みを探る試みをしているように思える。芸術の楽しみ方はいくつかあるが、公園にゲートを沢山建てるという一見つまらないアイデアでもこのような楽しみ方の可能性を実現しているように思われる。

人がアートに関して「意味がある」と感じるのはどのようなことからなのか?視点はいくつかあると思う。例えば一つ目は何かに対するreflect。われわれは芸術作品に対して何か表現されている対象を求め、さらにその中に表現されている作者の解釈を楽しむ。例えばそれが人物画であれば、芸術作品といわれるものであれば単に描かれた人物にそっくりに描かれているという以上のもの、その人物に対する深い洞察などが要求されよう。

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